学校の歴史
我が人生、犬とともにあり
- ①釜山で過ごした幼少時代
-
私は内地に故郷を持っていない。
生まれたのは現在の韓国・釜山である。
私の父は広島県福山市の裕福な地主の家に生まれた。
秋になると田んぼを貸している小作人から、借地料として大量の米が持ち込まれたという。
父の兄弟は昔の事だから何人もいたが、そのうちの一人の兄が今の韓国に渡り、牧場を始める事になった。
父はその兄と一緒に釜山へと赴き、牧場で生産される牛乳を街中で販売する仕事に携わった。配達員として現地の人たちを数十人雇い、繁盛していた。
大正の中頃のことだった。
私が藤井家の長男として生まれたのは大正十二年である。幼い頃の記憶は曖昧だが、学校が休みになると郊外の牧場に泊まりに行き、牛や鶏を見ては楽しんでいた事はよく覚えている。
街中とは違い、広々とした牧場で遊ぶのが、私は好きだった。
そうした生活も一家で満州に移り住む事になって一変する。
しかしこの移住が私にとって、その後犬と歩む生涯のスタートといえるものだったのである。 - ②犬との出会い
-
満州に移住したのは昭和八年である。
まだ治安が回復していない頃で、鴨線江を渡って安東駅からは警備兵が銃を持って乗り込んでいた。
なんでも匪賊に列車が襲撃される事があるという話だった。
新しい居住地は奉天(現在の瀋陽)だ。
移り住んですぐに父は、満鉄付属地の青葉町というところで酒類食料品の店を構えた。
小学校の高学年になっていたとはいえまだ子供だった私たちはすぐに ここでの生活にも慣れ、毎日元気に学校へ通っていた。
通学途中にはかっこうの遊び場もたくさんあり、よく道草をしては家路についたものだった。
そんなある日、帰り道にある空き家の床下から「キャンキャン」というか細い声が聞こえてきた。
覗くとそこには、まだあどけない顔をした子犬が二、三頭身を寄せ合って鳴いているではないか。
「ああ、可愛いな」と思ってしばらく覗き込んでいるうち、たまらなく 欲しくなった。
しかし、空き家とはいえよその家に忍び込むわけにもいけないし、人通りも 少ない。
気になりながらもこの時は諦めて家に帰った。
その日の夕食が終わったのは夜八時ごろだったろうか。
昼間見た子犬のことがどうしても気になり、家族には内緒でそっと家を 抜け出し、空き家へいってみた。
あたりは真っ暗である。
「おかしいな、確かこの辺りだったのに!」と思いながらうろうろと探し回ってみたが見つからない。
「やっぱりあの時、思い切って連れて帰ればよかった」と後悔し始めた時 どこからともなく子犬の鳴き声が聞こえてきたのである。
「あ、いた!」
その消え入りそうな声を頼りに進むと、昼間いた場所とは離れたところで ぽつんと一匹、鳴いていたのだ。
辺りを見回すと幸い誰もいない。
「しめた、今だ!」と仔犬を抱えると、私は上着のボタンを外して懐に入れ一目散で家に帰った。「しめしめ、誰にもみつからなかったぞ」と、その場を脱出したことに私はほっとしていた。
家に帰ってさっそく、空き箱に藁を敷きその中に仔犬を入れたが、父にはすぐに見つかったしまった。
それはそうだ。仔犬は心細さから鳴き続けていたのだから。
もちろん、父親からは大目玉を食らった。「なんだ犬など拾ってきて」 と怒鳴られた。
そこへ母親もやってきて「犬は便をして汚い。どうせ自分では面倒をみないくせに。」 母も犬を飼うことには大反対だった。
そんな両親の叱責を背に、私は「せっかく拾ってきたのに捨てられてはたまらない」と必死に仔犬を抱え、その場にうずくまっていた。
すると父の少し穏やかな声が聞こえてきた。「こいつはよっぽど犬が好きなのだろうこの間も七五三の時、写真館で張り子の犬を見つけ、欲しいと言ってきかなかった。仕方なくその張り子の犬と一緒に写真を撮ってもらったことがある。」
母にともなく、私に向けて話すでもなく、そんな風に呟いていた。
結局、父からは「飼ってよし」という許可の言葉は聞かれなかったが 私の頑なな態度に父も母もあきらめた様子だった。
翌日学校が終わると、私は一目散で家に飛んで帰った。「キャンキャン」 仔犬の鳴き声が家に入る前から聞こえてきた。
元気でいる姿を見て「ああ、捨てられなくてよかった」とほっと胸を なで下ろしたものだった。
それから数日後のことである。学校から帰ると母が飛んできて「多嘉史、大変だったんだよ」と言う。
何事か聞くと、繋いであった鎖が外れて犬が外へ飛び出してしまい、折悪く通りかかった犬獲りに捕まってしまったという。
まさに連れて行かれんばかりの時に帰宅した父は、その様子を見てこう言ってくれたそうだ。
「その犬はうちの息子が大事に飼っているのだから許してくれ」と頭を下げて頼み込み、なにがしかを包んで渡し、取り返してくれたのだった。
厳しい父だったが、この時の父の愛は今もしっかり心に刻まれている。 - ③犬の専門家としてのスタート
-
私が中学生の頃、満州は歴史の転換期を迎え混乱の渦中にあった。
当時、遼陽には関東軍の軍犬養成所があり、周水子に満鉄(満州鉄道)
の警戒犬訓練所、奉天に満鉄警備犬育成所、北満の数か所に満鉄の警備犬訓練所撫順に炭鉱警備犬訓練所、新京に満州軍用犬協会の本部養成所があり、各地には支部訓練所があったが密輸入が横行するという不安定な世情を受けて税関監視犬を大々的に増やそうという構想が持ち上がった。
その要請により設立されたのが、満州国財政部税関監視犬育成所だった。
当時奉天の北陵(大宗文皇帝の墓)にあった張学良(満州の軍閥)の別邸跡に育成所は建てられた。
その敷地はなんと、三万三千坪にも及ぶ広大なものであった。
昭和十二年、満州国政府の官報に「犬の技術者求む」の公募が載った。
新しく設立した税関監視犬育成所での犬の訓練者を求むものだったが、通例と違っていたのは、すでに犬訓練の技術を持つ年配者ではなく、犬好きの少年を集めて専門家を育成することを目的とした公募であったことである。
私はすぐに飛びついた。
「犬好き」「少年」どちらも募集要綱に合致するではないか、と。
しかし、父は反対した。
「これからは学問を身につけるのが何よりだ。犬屋になんかなるんじゃない!」と。
もちろん私は反論した。「犬屋ではない。税関官史だ」。
官史は今で言うところの公務員である。しかもこの時代の公務員は権力を持つことのできる立場にあった。
父の言うこれからは学問が必要だということにも一理あるとは思いつつ私は「官史」を盾に、なんとか自分の好きな道に進みたいと考えていた。
ついには父も折れてくれた。
「勝手にしろ」ということになり、私は晴れて満州国税関監視犬育成所に入所することになったのである。 - ④監視犬育成所での日々
-
張学良の別邸跡に設立された監視犬育成所は、私の想像を超える広さだった。
敷地内には成犬犬舎、育成犬舎、分娩犬舎、事務所、医務(獣医)室、犬の炊事場、それに広い訓練所の他、山羊小屋、豚小屋、さらに密輸の取締りに必要だとして ピストルの射撃場までがあった。
監視犬育成所の運営に当たったのは、遼陽にあった関東軍軍犬育成所で辣腕を振るってきた、いわばその道の「猛者」たちである。
財務部の税務司長だった所長を頂点に、軍犬育成所で所長を努めていた貴志少佐満州事変が勃発した現場にいたという河本大尉が主任を務め、その下に総務股(股とは中国語で「係」という意味)訓練股、育成股、蓄殖股、衛生股の五部門で構成されていた。
私が入所当初就いたのは蓄殖股だった。
種犬が発情すると管理して交配し、妊娠犬の管理、分娩に付き添い、生まれた仔犬が三ヶ月になるまで飼育するというのが仕事だ。
この期間が過ぎると仔犬は育成股へ引き渡される事になる。
蓄殖犬舎のエリアには、一坪大の室内と約三坪の付属運動場がひとつの括りでこれが十三犬舎並んでいた。
担当している犬が分娩する時は、この犬舎に簡易ベットを持ち込んで寝泊りし、助産婦の役を務めた。
難産の時はただちに獣医師に連絡して指示を仰いだりもした。
はっきりした数は失念したが、おそらく数十胎の分娩に立ち会ったと思う。
生まれてきた仔犬と過ごす時間は楽しかった。
空き家で見つけた仔犬を拾った時のことが彷彿とされ、その幼げな姿に心癒されもした。しかし私の視線は常に、蓄殖犬舎の先にある約四千坪もの広さのある訓練所に向けられていた。
「早く、一人前の訓練士になりたい!」。
私は毎日、訓練股の人たちが訓練する様子を見ながら、訓練のやり方を脳裏に焼き付けていった。
当然のことながら、一足飛びに訓練股をやらせてもらえるわけもない。
育成股などを経験し、念願叶って訓練股に回されたのは確か、入所して三年は経っていたろうか。
私が訓練股で師事したのは南喜十郎氏であった。
氏は税関の看板犬「セラー」を担当し訓練しておられた人物。看板犬を訓練しただけあって、氏の指導は後の私にとって大きな財産となるものだった。
その後、南氏が図們税関へ犬舎長として転勤される事になったのを期に、看板犬セラーと、その子のセラー二世を私が担当する事になった。責任重大である。
訓練の成果を試される大会はほどなくして行われた。
全満洲の第二回軍用犬訓練競技会がその晴れの舞台だった。私はセラー第二世を連れて出場した。
結果は二位に終わってしまったのだが、衆目の一致するところでは、この時に一位になった犬は襲撃も弱く、動作も活気なく、審査は納得できないものだった。
しかしどんな世界にも灰色部分を容認しなければならない場面はあるものだ。まだ若かった私にはそれがはがゆく、なんともすっきりしない結果ではあった。
私はこの監視犬育成所で七年を過ごした。
これからは英語が必要な時代が来ると英語教育も受けていたが、その間にも世情は深刻になる一方だった。
密輸品が枯渇するようになり、監視犬の需要は極端に減り、代わって国境を警備する警察犬、麻薬の取り締まりにあたる捜査犬、塩や煙草の倉庫を警備する警備犬の需要が高まってきた。
私はそれらの役割を果たす犬の訓練や取扱者の教育助手を務めるようになったが監視犬育成所に同期で入所した十七名は、厳しい上司がいたこともあり、景気の良い軍需産業へと一人移り、二人移りしていき、とうとう最後まで残ったのは私一人となってしまったのである。 - ⑤我が「終戦」は昭和二十四年
-
昭和十八年、私は二十二歳で飛行兵として入営。
航空通信連隊に配属された。経歴からてっきり歩兵の軍犬班に配属されるものとばかり思っていたので、この配属には驚いた。
それほど戦局は敗戦濃厚だったのである。
昭和二十年八月九日、ソ連軍が満州国に侵入。 私たちは無線機を持って、吉林から撫順に向かう途中の新しく建設された飛行場に行って通信所を開設すべく命令を受けていた。
だが、吉林の近くで列車はストップ。終戦はこの時、無線機で聞いたのだった。部隊は解散し、私は奉天の親元に帰った。
家族は全員無事だったが、日本人は敗戦国民としてすべての特権を失い、みじめな境遇となった。
帰還して一週間ほど経った頃、兵役のあるものは登録せよという通信があった。
「通行証が与えられるそうだ」という噂が流れ、兵役のあるものはこぞって登録を行った。
しかしそれは通行証発行のための手続などではなかった。
八路軍(中国共産軍)によってそのまま捕虜収容所へと連行され、再び部隊が編成されて中央シベリアへと送られたのである。
シベリア抑留は四年に及んだ。
労働はきつく、ひもじい思いもした。
筆舌には尽くしがたい辛苦も体験したが、この四年間で妙な自信が湧いてきた。「何をしたって食っていける」。
そんな思いを強くしていた。
収容所時代は偶然にも、満州軍用犬協会の山田秀雄訓練士(帰国後JKC理事)と一緒だった。
厳しい環境の中、時に犬の話で盛り上がることもあり、心の慰めになったものである。
この時は、山田訓練士が義理の父になろうなどとは思いもよらぬことであったが・・・。
日本へ帰ったのは、昭和二十四年夏のことだった。 - ⑥上京を促してくれた先輩の大恩
-
私は母の郷里である岡山県の井原市に落ち着いた。
すでに帰郷していた父母、二人の姉と弟(邦蔵)も一緒だった。
しばらくは妹の嫁ぎ先のよろず屋(雑貨商)を手伝っていたが、犬に関る仕事に就きたいという思いは募るばかりだった。
何とかいい就職口はないものか。
そんな折、弟の邦蔵が一枚の新聞を持ってやってきた。
そこには「犬訓練士募集。訓練士学校を開校計画中。一人前の訓練士高級採用」と書かれた広告が掲載されていた。
私はさっそく、その協会がある倉敷市に赴き、採用されることとなったのだが、日を追うごとに、その協会がいかにもいかがわしいところであることが見えてきたのである。「こんなところにいるわけにはいかん!」と、逃げ出す算段を考える毎日だった。
ちょうど犬の雑誌を見ていたら、満州時代にお世話になった一瀬欽哉氏の名前が載っていた。
「そうだ、この人に相談してみよう。」
早速一瀬先生に電話をかけたところ、先生はびっくりしながらも「仕事をするなら東京に限るから、上京しなさい」と、東京へ呼んでくれたのである。
まさに着の身着のままという表現がぴったりだったろう。
私は懐中に全財産の五千円を忍ばせ、引揚時の姿で上京した。
昭和二十五年の夏のことだった。 - ⑦赤羽に訓練所を開く
-
一瀬先生のところには約一年お世話になった。
まだまだ戦後の混乱期がつづく中、私は犬の訓練に没頭できる環境を与えられ、さまざまなことを学ぶことができた。
この恩義は一生忘れるものではない。
その大きな「宝」を先生からいただき、現在の自宅のある赤羽に訓練所を開設したのは昭和二十七年のことだった。
このときはすでに広島から弟の邦蔵も上京し、訓練所の立ち上げに協力してくれた。
そしてもう一つ、大きなことがあった年である。 結婚である。
シベリアで犬の話をしながら心癒したあの山田秀雄訓練士の娘・玲子との結婚であった。
PD(日本警察犬協会)で英文タイピストをしていた玲子と知りあい、それがあの山田訓練士の娘であることを知り、浅からぬ縁を感じたのはおそらく玲子も同じであったろう。
さて、赤羽の訓練所はそういうわけで我ら夫婦の新居でもあった。
当時は五十坪たらずの手狭なものだった。
犬を遊ばせるにも近隣への気遣いは大変だったものだ。
しかし私は、どうしても赤羽に訓練所を開きたかった。
なぜなら、警察犬の日本訓練チャンピオン競技会の会場が荒川の河川敷で行われていたからである。
チャンピオンを狙うには、会場の近くにいるほうが絶対に有利である。
犬にとっても訓練士にとっても、馴染みのある場所は落ち着くし、出場にも手間取らない。
私はなんとしても、日本一の訓練チャンピオンの栄冠を獲得したかったのだ。
落ち着いた新婚生活などないに等しかった。
朝は五時に起き、全犬の排便の世話をして犬舎の掃除、それが終わると自転車で犬を、二、三頭同時に引き連れて荒川堤防へ行き、全犬運動訓練をすませ、訓練所へ戻って犬に朝食を与える。
それが終わってようやく自分たちの朝食というのが日課だった。
九時過ぎになると今度は、自転車で出張訓練へと出かける。
練馬、中野、世田谷、上野、時には千住のほうまで愛犬家宅を廻った。
コッペパンをかじりながら公園で水を飲むというのが私の昼食だ。
そして、赤羽に帰り着く頃はすでに暗い。
一日中自転車であちらこちらを廻るものだから股にはタコができたが、痛いなどといっている暇はない。
犬舎にいる犬に食事を与え、それが終わって自分たちの夕食は八時。
さらに最後に犬の排便の世話をして終わると、すでに時計の針は十時を指している。
そのまま疲れ果てて寝るという毎日だった。
こうした毎日に実りの時が訪れたのは昭和二十九年。
警察犬の日本訓練チャンピオンを「アルマン・フォン・トシマタダ」で獲得したのである。
夢は叶った。
私は充足感で満たされた。
さらに、翌年、翌々年と同競技会で、三年連続してチャンピオンを勝ち取ることもできた。
「快挙」の声も聞かれた。
その後、アルマンの子「インゴ・フォン・フッサ・ベーカリー」もチャンピオンを獲得し、弟子たちもさまざまな競技会で活躍してくれた。 - ⑧訓練士学校の開設
-
その間にも日本は、戦後の復興を見事遂げていた。
赤羽界隈も住宅が密集するようになっていた。
五十坪足らずの訓練所ではだんだん手狭になってきたということもあるが、東京二十三区内では多数頭の犬の飼育は困難になりつつあった。
訓練所の移転は急務だった。
私としてはかつての税関監視犬育成所のような広大な訓練所が夢だったが、土地は年々騰る一方。
それでも少しでも広い場所はないものかと探し、見つけたのが現在地である。
埼玉県の入間郡大井村に千坪の訓練所用地を求めた。
そのさいは、土地を担保に銀行から融資を受け、私を信用してくださる愛犬家の方が保証人になってくださった。
快く保証人を引き受けてくださる方がいなければ、私の現在はなかったかもしれない。
もう故人となられたが、この時に受けた恩は一生つづくものと思っている。
新たな訓練所を開設したのは昭和三十九年。
翌年には株式会社を設立し、㈱オールドックセンターとした。
広い訓練所に移り、犬たちも喜んでいたであろう。
もちろん私も妻の玲子も、そして子どもたちも広々とした環境で、犬との触れ合いを楽しんでいた。
その後、各方面から「訓練士の学校を設立してはどうか」という話が寄せられるようになった。
実は私自身、チャンピオン犬を出した頃に週刊誌のインタビューに答えて「いずれは、犬の訓練士学校をやりたい。いつまでも徒弟制度に頼っていてはいけない。」と話している。
その思いが消えていたわけではなかったが、できるならば公な機関に働きかけて実現したいと念願していた。
ところがこれがなかなかうまくいかない。
かつては警察犬も軍用犬も、国家の方針としてやっていたではないかという思いが胸の中に渦巻いていたが、「これも時代の流れというものなのかもしれない。それならば・・・」と、各方面からの助言もあって清水の舞台から飛び降りたというわけである。
折しも、自称訓練士の殺人犯が出て世間を騒がせていた。
愛犬家に迷惑をかける同業者もいた。
このような状態をいつまでもつづけていいわけがない。
私は、使命感のようなものに駆られてもいたのだと思う。
そして昭和五十四年、私設の「日本訓練士養成学校」がスタートしたのである。
日本訓練士養成学校は、おかげさまで創立二十五周年を迎える。
これまでに巣立っていった生徒達は四百人に及ぶ。 - ⑨訓練士団体設立へ向けて
-
㈱オールドックセンターの設立を計画した頃から私は、訓練士のための団体の大同団結を考えるようになった。
戦後いくつかの訓練士会が結成されたが、どれも長続きはしなかった。
各地で訓練士会は結成されていたが、いかんせん、横のつながりがない。
そのため、親睦的な団体、技術向上に重点をおく団体、休眠状態の団体など、バラバラの状態であった。
これをなんとかまとめ、全国的なレベルで技術の向上を図り、より信頼性の高い指導団体にしていきたいと試行錯誤するようになったのである。
社会の治安に大きく役立つ警察犬の重要性はいささかも衰えていない。
家庭で飼われる犬も増え、事故が起きないようなしつけの重要性もいわれ始めていた。
時代は訓練士の充実を要請している。
私はそう感じた。
私が最初につくったのは東京使役犬訓練研究会という若手の訓練士を集めた会であった。
この会はその後、発展解散して東京城北訓練士会となった。
日本警察犬協会の一等訓練士会も私が運動し結成し、今年で四十五周年を迎えている。
さらに、有志と協力して関東地区の訓練士グループを結集して、東日本訓練士団体連合会を組織した。
この連合会は現在もつづき、今年で三十七周年を迎えることとなった。
現在全国十五団体が加盟し、年四回の会報誌「訓連」を発行して、訓練士のレベルアップに努めている。
会報誌「訓連」は今年で九十二号と発行を重ねることとなった。
「東日本」の名称は「日本」に改めた。
また、時代に即応する家庭犬のしつけ研究会を全国より集めて二回開催した。 - ⑩東京都動物保護管理協会の設立
-
日本獣医師会会長の杉山文男先生は東京都獣医師会会長のときに、各動物関係団体に働きかけて、昭和五十三年、東京都動物保護管理協会を設立された。
この協会の設立は、家庭犬が増えている中でもなお、「しつけ」と「訓練」が乖離していた時代に、両者を結びつけて大きく前進させるきっかけとなるものであった。
「これからは使役犬としての犬の役割のほか、家庭で家族の一員として暮らす犬たちすべてを愛護する」時代を予感させるものだったのである。
私が理事をしていたJKCにもお声がかかり、参加協力させていただいた。
訓練士団体としてももちろん参加した。
私は協会の常任理事として推され、会合や行事にも積極的に顔出しするようになった。
年に一度の「動物フェスティバル」では総合司会を務めさせていただくようになった。
杉山先生からの要請で始まったこうした活動が、犬の訓練士という職業を、新しい未来に向けて一歩踏み出させるきっかけとなったことに異論を唱えるものはいないだろう。 - ⑪聴導犬の研究開発へ
-
今から二十年ほど前、日本小動物獣医師会より「アメリカに聴導犬というのがあるが、ぜひ日本でも普及したいので、研究開発してモデル犬をつくってくれないか。ついては訓練士諸氏のご協力を仰ぎたい」と依頼があった。
目の不自由な方のパートナーとなる盲導犬というのはすでに日本でも導入されていたが、聴導犬というのはどんなことをする犬なのか、お話をいただいたときはまったく知らなかった。
それでも担当の獣医師を案内して、東京近辺の訓練士の例会に説明、お願いに歩いたが、案の定、一年経っても取り組んでみようという人はあらわれない。
聴導犬とは、耳の不自由な方の耳の役割をしてくれる犬のことだ。
目覚まし時計や電話の音、ドアのノックの音、チャイムの音、火災報知機や防犯ブザーなど、必要のある音、危険だと思われる音、さらに赤ちゃんの泣き声などを主人に知らせる事を役目とし、睡眠中でも主人を起こし、音のするほうへと誘導することができなければならない。
聴導犬をつくりあげるのは社会福祉の面からもとても有意義なことである。
しかし、行政や団体からの協力無しにはつづけにくい。
負担は訓練士にかかってくることもあり、手を上げる人のいないことは容易に想像がついた。
しかも、見たこともなく、聞くのもはじめての聴導犬である。
「誰も取り組む人がない以上私がやるしかないではないか」。
そんな思いから聴導犬の研究開発に取り組んだのは昭和五十八年のことだった。
預かり犬や訓練犬が百数十頭もいたからこそできたものだと思っている。
城北訓練士会の前田勇、吉田欽次郎両氏に協力していただき、アメリカから送られた写真数枚と訓練方法の説明書を開き、長年の経験に合わせ、暗中模索、試行錯誤を繰り返しながら聴導犬の訓練に取り組んだ。
翌年研究開発に成功、続いて実用化に取り組み現在までのところ、ようやく十七頭を、日本小動物獣医師会の認定を受けて視聴覚障害者のもとにお渡しする事ができた。
しかし、聴導犬を必要としている方は多くいらっしゃるに違いない。
私たち訓練士の取り組みはまだまだつづくものと思っている。
平成十二年に日本小動物獣医師会より発展的に聴導犬普及協会は独立した。